山門のそばで待っていた湊は、墓の方をそっと見上げた。
石畳の道の向こう、遥の姿がかすかに見える。立ち尽くす彼女が、誰かと話しているように口を動かしていた。
けれど、傍らには誰の姿もなかった。
まるで目に見えない誰かと会話しているような、そんな様子に、湊は胸の奥に小さな棘のような不安を感じる。
遥は昔から、強がるところがあった。無理をして笑ったり、平気なふりをしたり。でも今は、それとはまた違う。どこか、空を見つめるような目をしているときがある。
――あれから、六年。
不意に、石畳の上で細かな雨が弾ける音がした。
湊は傘を開き、静かに墓の前へ向かって歩き出した。石畳の道を曲がったところで、遥の姿が見えた。彼女はゆっくりと歩きながら、湊に気づくといつもと変わらぬ柔らかな笑みを向けた。
「おまたせ。……お参り、終わったわ」
「うん、じゃあ行こうか」
湊は彼女に傘を差し向け、並んで歩き出す。頭上では、しとしとと雨の音が続いていた。
「……雨、本当に降ってきたね」
「お前、絶対降らないって言ってただろ」
「だって、本当に降らないと思ったんだもの」
「でも、降っただろ?……遥は昔からそうだよな。決めつけが多い」
「そうかな?」
「そうだよ。ほら、行くぞ」
「うん」
二人のあいだに、しばらく静かな時間が流れた。
寺の坂道を下りながら、湊はちらりと遥の横顔を見た。声は普通で、足取りも乱れていない。さっきの“独り言のような様子”を、問いただすべきか迷ったが、結局、言葉にはできなかった。
結審のあと、遥が悠真の墓に向かうと言ったとき、湊は自然と「付き添おうか」と申し出ていた。
そうやって傍にいたくなるのは、いつも遥が、“どこか遠くを見ているような目”をするからだ。
「……引っ越し、ほんとにするんだな?」
「うん。裁判も終わったし……。さすがに、ずっと実家にいるのも申し訳なくて」
「でも、おばさんたち……寂しがるだろ」
「……それは、そうだけどね。お父さんはわりとあっさりしてたけど。……私が、ちゃんと前に進んでるって思ってくれるなら、安心するかなって」
「ふーん……」
湊は、それ以上は言わなかった。雨の中、二人で歩く音だけが響く。
「……あの、ね。あらためて言っておきたいんだけど、湊。お店で働かせてもらって、本当にありがとう。求人、見つからなかったし……すごく助かってるの。でも、ずっと頼ってばっかで、ごめんね」
「……なに言ってんだ」
湊は言葉を切って、苦笑した。
「こっちは人手足りなかったし、遥がいてくれて助かってんの。お礼を言うのは俺の方」
「でも……私、あんまり役に立ってないかも。アンティークとか詳しくないし……失敗も多いし……」
「いいって。あの店、別に完璧求めてるわけじゃないから。遥が笑って接客してくれるだけで、雰囲気がぜんぜん違うんだよ」
「……湊」
「それに、他人じゃないしな」
ぽつりと、そう付け加えた湊の声が、少しだけ遠くを見ていた。
遥は小さく笑って、返事の代わりに「ありがと」と呟いた。
坂を下りきった頃には、雨が少し強くなっていた。
湊がちらりと腕時計を見る。
「……コーヒーでも飲んでいくか?この近くに新しくできたカフェ、割と落ち着いてていい感じだよ」
「うん。……そうだね。ちょっと、寄っていこうか」
「よし。あそこ、チーズケーキも美味いんだ」
「え、ほんと?」
「嘘言ってどうする?ほら、行くぞ」
冗談を交えた湊の言葉に、遥はふっと笑った。
並んで歩く二人の頭上で、傘の布を叩く雨の音が、柔らかく続いていた。
冬の始まりを告げる冷たい風が、街角の枯れ木を鳴らしていた。面会のあと、女――朝比奈美月は錯乱状態に陥り、手記どころではないらしい。「生きている」と弁護士に告げられたとき、ほっとしたような、悔しいような感情が胸の奥でぶつかり合い、形にならないまま沈んだ。出版社へは内容証明で警告を送り、あの記者はそれきり姿を見せない。――そんなことはどうでもいい。悠真は、あの日から戻らなかった。どこを探してもいない。遥は唇を噛み、しばらく思い出の家に籠った。カーテンの隙間から冬の光が細く差し、浮いた埃が静かに巡るのを眺める日が続く。けれど、家族の手と、湊の粘り強い気遣いが、少しずつ彼女を外へ連れ出した。---アンティークショップに戻った初日、遥はいつもより早く店に着いた。羽箒で古いランプの笠を撫で、木の棚の埃を払う。真鍮の取っ手に白い息が淡く映り、拭き跡が鈍い艶を取り戻す。動いている手のほうが、心のざわめきを静めてくれることに気づき、少し驚いた。――いつの間に、ここが私の居場所になっていたんだろう。湊の隣が。ドアベルが小さく揺れ、外の冷気をまとった湊が入ってきた。コートの肩には、出先で受けた風の名残がまだ残っている。「ただいま」「おかえりなさい。コーヒー、淹れるね」「ありがとう」湊が扉の札を裏返し、〈CLOSED〉にする。遥は首をかしげた。「もう閉めちゃうの?」「遥が淹れてくれたコーヒー、ゆっくり飲みたいから」「&hellip
刑務官に促され、遥と湊は面会室を後にした。廊下の空気は冷たく、足音だけが硬く響く。別室に通され、短く事情を問われる。遥は女の様子を尋ねたが、「お答えできません」とだけ返された。外に出ると、秋の空は高く澄み渡っていた。高い塀が陽を遮り、影が長くのびている。その横を、遥は湊と並んで歩く。駐車場までの道のりは、ほんの数十メートル。けれど、その間に何度も足が止まりそうになる。――悠真がいない。その事実が胸の奥で波を立てていた。会いに行くべきではなかったのではないか――。そんな後悔が、一歩ごとに重くなる。けれど同時に、あの言葉。悠真が、女と男女の関係でなかったと、自分を愛していたと。そして、女を罰したあの強い意志。どこかで、それを受け入れてしまっている自分がいた。車にたどり着くと、湊は運転席に荷物を置き、自販機へ向かった。戻ってきたとき、手には二つの缶コーヒーがあった。「飲めよ、遥」その声は、少しだけ低く抑えられていた。温かな缶を受け取ったとき、掌にじわりと熱が染み込む。「……ありがとう、湊」プルタブを引き、口に含む。湊も隣で自分の缶を開け、短く口をつけた。車内に沈黙が落ちる。遠くで風が木々を揺らす音だけが聞こえた。やがて、その静けさを破ったのは、遥だった。「……悠真が、いたの」
遥の横を、すっと影が走った。目で追うより早く、それは分厚い硝子の向こうへ抜けていく。悠真――。いつの間にか、彼は女の横に立っていた。朝比奈美月の瞳が驚きに見開かれ、頬の筋肉がひくりと動く。薄い唇が開きかけたその瞬間、遥の指からハンカチが滑り落ち、床にふわりと沈んだ。「……悠真」押し殺した声が通話口を越え、隣の湊の肩がわずかに動く。《本当のことを話せ》悠真の声が、面会室の空気を切り裂いた。《俺とお前は不倫などしてない。寝たことも、キスしたこともない。俺はお前が嫌いだった。だから部署の異動を願い出た。勝手な妄想で嘘をばらまき、妻を苦しめるな。今すぐ、本当のことを話せ》美月の瞳が揺れる。「……でも、私を見てた。見てたでしょ?」《お前なんて見てない》「嘘よ。本当は私を愛してた。パスカードに奥さんの写真なんて入れて……そんなのアリバイ作りじゃない。私が好きなのに、好きじゃないふりをして異動を願い出るなんて」言葉は笑みに包まれているのに、瞳はどこか焦点を外していた。「あなたを自由にするために……最初は奥さんを殺そうとしたの。でも、チャンスを逃して……だから、あなたを殺すことにしたの」《――お前……!?》悠真の顔に、はっきりとした衝撃が浮かぶ。遥の背に冷たいものが這い上がり、足元から力が抜けた。
硝子越しに座った女を、遥はしばらく見つめていた。通話口の向こう、無表情のままのその顔。どんな言葉から切り出すべきか、一瞬だけ迷いが胸をよぎる。けれど、すぐに押し込められた。「……あなたは、私の夫を殺した」静かに、しかし濁らない声。「それだけでは足りず、嘘ばかりの手記まで出そうとしている。それをやめてほしい。もう、悠真に関わらないで」隣の湊が、わずかに横目で彼女を見やる。その視線には言葉よりも深い気遣いがあった。背後の壁際では、悠真が唇を噛み、目を逸らすことなく女――朝比奈美月を見据えていた。「……嘘?」美月の唇がわずかに動く。「そうよ。すべてが嘘」間を置かず、遥の声が通話口を越える。「悠真はあなたと不倫なんてしてない。一方的に執着して、つきまとって……そして刺し殺した。残酷に、何度も何度も」短く息を吸い、言葉を重ねた。「最後まで認めなかったけれど、控訴を取り下げたのだから、本当は関係なんてなかったって分かってるはず。謝罪はいらない。でも、手記だけはやめて。これ以上、私たちを傷つけないで」視界がわずかに滲む。頬を伝った涙を、湊が黙って差し出したハンカチが受け止めた。手渡すとき、彼の指先がほんの一瞬だけ、彼女の指に触れる。そのわずかな温もりが、胸の奥に滲む。背後から、悠真の手がそっと肩に置かれた。遥はその存在を感じ取り、自分の手を重ねた。
秋が深まり、空気が少し硬さを帯びてきた頃。弁護士を通じたやり取りの末、朝比奈美月との面会が許可された。夫を殺した女と、目を合わせる――。その瞬間、自分がどう反応するのか、遥には分からなかった。怒りで声を荒げるのか、ただ沈黙するのか。どちらにせよ、取り乱す姿だけは見せたくない。湊は、その迷いを言葉にせずとも分かっているようだった。面会の日が近づくにつれ、彼の声のかけ方は少しずつ柔らかくなっていた。向かったのは、茨城県の関東女子刑務所。高い外壁の上に有刺鉄線が張り巡らされ、分厚い門が昼間の光を拒む。受付で許可証を受け取り、荷物を預ける。金属探知機を通り抜けると、いくつもの重い扉が開閉され、そのたびに鍵の音が乾いた廊下に響いた。その途中、湊が歩幅を少し落とした。「……無理はするなよ」声は低く抑えられていたが、響き方は温かかった。遥はうなずくふりをしながら、胸の奥で別の思いが揺れていた。悠真が、この面会に立ち会うことをどう感じるだろう――。女と向かい合うのは、私だけではない。その事実が急に重たく感じられ、面会を求めた自分を責めそうになる。それでも、真実を確かめなければならない。そして、出版を止めるためにも。面会室は、小部屋が並び、分厚いアクリル板で向こう側と隔てられていた。机の中央には金属網のはまった丸い通話口があり、声だけがそこを通る。湊と並んで座ると、背後の壁際に悠真の姿があった。彼は硝子の向こうを見据えて動かない。
医師が病室を出ると、入れ替わるように湊が入ってきた。「問題はない」と告げられたはずなのに、その眉間の皺はすぐには消えない。「……しばらく、実家に戻ったほうがいい。おじさんもおばさんも、心配してる」「でも……」《そうしろ、遥》壁際に立つ悠真が、低く短く言った。その声音に押されるように、遥は頷いた。実家の空気はやわらかく、静かだった。けれどそこに悠真の姿が現れることは、ほとんどなかった。夜、ひとりで目を閉じると、あの声も気配も、少しずつ遠ざかっていく気がした。◇◇◇一週間後、遥は出版社に向かった。湊が隣を歩き、悠真は後ろに黙ってついてくる。案内された応接室は、重いカーテンで昼の光を拒んでいた。湊が椅子に腰を下ろすと、編集長が姿を見せる。「お話は伺っていますが……こちらとしては出版の予定に変更はありません」その言葉に反論したのは湊だった。彼は淡々と経緯を語る。犯人、朝比奈美月が実刑判決を受けていること。その証言が妄想に基づく虚言であること。それを“事実”として書籍化するのは誤りだということ。「誤りかどうかは、読む人間が判断します」編集長は声の調子を変えずに答えた。そのとき、扉が開き、包帯を巻いた男が入ってくる。あの記者だった。憮然としたまま椅子